推しに認識されたくないという心理
「推しに認識されたいですか?」
突然何だこの質問は、と思うかもしれない。しかし私はこれについて随分長いこと考えてきている。
私もかつては推しに認識されたいタイプの人間だった。しかし現在では絶対に推しに認識されたくないタイプの人間になってしまったのだ。
推しが好き、大好き、応援したいという気持ちはずっと変わっていないのに認識されたいか否かという問いに対する意識だけが変化してしまった。ちょっとひねくれた反抗期みたいだ。
どうしてそうなってしまったのか?このことを語るために少しだけ懐かしい話をする。
Twitterで私のことをフォローしている人ならご存知だろうが私は嵐が好きだ。分かりやすく言うと櫻井担だ。
いつから好きなのかと言うと多分小1とかその辺。
そんな私に生まれて初めて「同じものが好きな友達」ができる。確か小2の頃だったと思う。
休み時間の度に「嵐に会ってみたい!」だの「付き合うなら○○くんがいい!」だのよく語り合っていた。ませてるね〜。
そう、この頃はまだ嵐に認識されたかった。
しかしここで転機が訪れる。周囲で所謂こうかんノートが流行り始めたのだ。(人によっては交換日記と呼んでいたかもしれない)
こうかんノート、シール帳、プロフ帳、手紙交換…紙媒体でお互いの趣味や秘密を共有することに何か特別感を感じる年頃になった私達は例に漏れず交換ノートを始めた。鍵付きの手帳が憧れだった。
(今思い出すと全て小っ恥ずかしいが当時は何よりも楽しかったし、相手から回ってくるのが遅くなったり他の友達から「私もそこに混ぜて!」と言われると複雑な気持ちになったりしたものだったな。)
たった2人で回す交換ノートでしかも小学生のボキャブラリーなのだから話が尽きるのは早かった。「今日あったこと」くらいしか書くことがなかったし、同じクラスだからそんな日記じみた話は書くまでもなくお互い知った話だった。(恋バナなんて1週間も持たなかった)
そこで私たちが取った手段は「コーナーを作る」だった。
とりあえず手っ取り早く「絵しりとりコーナー」から始め、「質問コーナー」なども生まれた。ちょっと年齢が上がれば暗号クイズを作って出題しあっていた時期もあった。キャンパスノートの1ページでレイアウトを考えるのも楽しかった。(今思えばプロフ帳との融合だったのかもしれない)
小学校高学年になり私たちは嵐のファンクラブに入った。親にCDを買ってもらったり、お下がりのウォークマンを貰ったりして嵐に触れる機会が圧倒的に増えた私たちは交換ノートでも嵐の話をするようになる。
「好きな曲を毎回1曲語るコーナー」、「好きな曲の歌詞をワンフレーズ書き出すコーナー」等、慣れないパソコンを使って歌詞を検索し頑張って英語のフレーズを書き起こしていた日々が懐かしい。
何だか楽しくなってきた私たちはついにIF話にも手を出し始めた。
ここが私が推しに認識されたくないと思うようになったきっかけだった。
IF話というのは具体的にいえば「もし嵐の中で付き合うなら誰がいい?」や「もし嵐と家族になるならどんな構成がいい?」などのアイドル雑誌にありそうな質問をお互いにするというものだ。
私は元々文章を書くのが好きだったため書ける限り自分の思ったことを全て表そうとしてしまった。
普段会話の流れで「付き合うなら○○くんがいいな〜」と軽く言うのとは違い、自分の頭の中で整理しまとめ上げ認識できる文字に変換するという作業の中で自分の考えが全くわからなくなってしまったのだ。
悩みに悩んだ末答えを出し交換ノートを回したけれど自分の中では靄のようなものが残ったままだった。
当時何と答えたのかは覚えていないが私なりに無難な答えを出したのだろう。
幼かったが故に真剣に考えてしまった事なのだが、その思考が今でも引き継がれ脳の奥深くに居座っている。
その結果どうなったか。推しに認識されるのがとてつもなく怖くなってしまった。
簡単に言うと、握手会などの直接会えるイベントが怖い。嵐はもう握手会はやっていないが、近いものでいうと某チャリティー番組の募金だろうか。直接募金箱を渡せるあれ。ああいう推しに実際に会えてしまうイベントがものすごく怖い。
長すぎる前置きになってしまった。ここからはどうして推しに認識されたくないのかについて考えてみる。
初めは所謂「リア恋」「ガチ恋」などの感情に拒否反応があったではと思った。
仲のいい友達と電話をしていた時、偶然リアコについて話したのだがその子からは「リアコにならないとか意味わかんない」と言われてしまった。意味わかんないことはないだろ別に。
今思えば夢小説はずっと苦手だった。
嵐にしやがれという番組内で櫻井くんがやっていたコーナーで「変装して観光地に行き、バレたら即終了」というものをやっていたが私は正直あれも怖かった。どことは明記しないが1度地元のすぐ近く(電車で30分くらい)に櫻井くんが来ていたのだ。
ま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜怖かった。
だって目撃情報を得てすぐ家出ればその場に間に合ったレベルで近くに櫻井くんが来てたんだよ???
怖〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!
母とはこんな会話をした。
母「お店入って櫻井くんがいたらどうするの?」
私「そのまま真っ直ぐ引き返す」
母「話しかけられそうになったら?」
私「その前にダッシュで逃げる」
…まあ笑われた。理由の半分はすごい早口だったからだろうけど。
ずっとグダグダと書いているが、ちょっとここでどこまでがセーフでどこからがアウトなのかを考えてみる。
まずこれ。これが無理。
前述した通り推しに直接会えるイベントが怖い。
一緒に写真とか言語道断。
この距離感はOK。ライブには行く。
でも文字うちわとかうちわによるファンサのリクエストは無理。顔写真の公式うちわは持つ。
出待ちというものがあるが私はルール上ダメだからという理由以前に出待ちなんてしたくない。逆になんでしたいの??なんで???
余談だがもともとこの画像のように夜中に1人で曲の良さに浸りTwitterで早口ツイートをするという典型的なオタクである私は嵐についてリアルで語ることがあまりない。自分の口で語ることによって自分の脳内が音声化されることが何故か耐えられない。
だから友達に「○○って嵐好きなんだっけ?誰推し?」と聞かれても「えと…しょ、櫻井くん」と、ま〜〜〜〜〜〜〜小声で答えてしまう。コミュ障陰キャオタク丸出しだね。
よくある妄想として「サプライズで推しが急に教室に入ってこないかな〜」があるがそれもすごく怖かった。教室に入ってこられた場合下手したら周囲のクラスメイトから「この子ファンだよ!!」と100%善意で伝えられてしまう可能性がある。怖い。
ただ推しがサプライズで目の前に現れるシチュエーションなら、たまたま参加していた大型イベントのゲストとして登場は平気だ。凄く嬉しい。
さて私のボーダーラインを探すためにいくつか例を挙げたが私が「無理!!!!!!!!!!」となってしまうのは推しから個として認識されるというものだと分かる。
画像にするとこんなイメージ。私は沢山いるあなたのファンのうちの1人でありたいのだ。
名前とか顔とかは一生知られなくていいし、変わったうちわを持ってMCでいじられたりしなくていい。街中で見かけたとしても声をかけない。
ライブに行くことを「会いに行く」と解釈しなければ、至極当然だが私は嵐に会ったことがない。これまで好きで推してきた嵐は「1度も私にあったことの無い嵐」なのだ。大袈裟だが、私はきっとそれが崩れてしまうのが怖いのだろう。風が吹けば桶屋が儲かる、なんて言葉があるが私はそれを恐れている。推し、どうかそのままで。
さんざん認識されたくない認識されたくないと書いてきたが、沢山のファンがいるという事だけは知っていて欲しい。
ただ私を、私として人生の登場人物の1人にしないで欲しいのだ。